2021/12/10 10:58

濱田庄司(はまだしょうじ)

柳宗悦、河井寬次郎とともに民藝運動を初期から推進した濱田庄司は、近現代の日本を代表する陶芸家です。

みずから「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返っているように、濱田の作陶家としての生涯は4つの土地を抜きにして語ることはできません。

東京高等工業学校窯業科に入学した濱田は上級生であった河井寬次郎という終生の友を得て、卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所します。

このころ、個展で出会ったイギリス人陶芸家、バーナード・リーチを千葉県我孫子の柳宗悦の家に訪ねたことから、柳とも親交を深め、大正91920)年にリーチとともに渡英。セント・アイヴスのリーチのもとで作陶生活に没頭した約3年半の間に、濱田はその土地固有の素材を用いることと、伝統を生活や作陶に生かすことを学びます。

帰国後、濱田はまっすぐ京都の河井邸に向かい、そのまま滞在。柳と河井を引き合わせ、この3人が中心となって民藝運動を推進することになるのです。

濱田の日本での作陶は、沖縄の壺屋と栃木県益子で始まります。沖縄には長期滞在し、イギリスで学んだ作陶法を実践し、伝統的な壺屋焼にならった作を残しています。また、生活に根差した制作の場を求めて移住した益子では多くの古民家を邸内に移築し、作陶に没頭。ほとんど手轆轤(てろくろ)のみでつくるシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様などの作風を追求しました。

柳の没後、濱田は「日本民藝館」第2代館長に就任。終生を民藝に捧げたといっても過言ではありません。


写真はすべて日本民藝館

右上/「柿釉青流描角鉢」1954年 右下/「白釉黒流描鉢」1960年代 左上/「藍塩釉櫛目鉢」 1958年 左下/「白釉鉄絵丸文壺」1943

生活に根差した作陶意識を反映した、濱田庄司の堅実で力強い器

いずれも作陶の拠点であった益子の土と釉薬をもちいたもので、力強く健康的な作風に特徴がある。


和楽web編集部より転記

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