萩焼とは

萩焼とは

 萩焼は、毛利氏が慶長9年(1604)に萩へ本拠を移した後、朝鮮半島から召致した李勺光ら陶工たちの技術に支えられて、萩城下東郊の松本(萩市椿東中之倉、家の現住地)に萩藩(長州藩)の御用窯として開かれました。17世紀前半は、李勺光の子である山村作之允(光政、出家して松庵)が、叔父の坂髙麗左衛門(李敬、助八)とともに御用窯の作陶活動を率いていましたが、明暦3年(1657)に作之允の子の山村光俊は弟子たちとともに深川(現在の長門市深川湯本)に移住し、在地住人の坂倉九郎右衛門の協力を得て第二の御用窯(三之瀬焼物所、ただし経営は半官半民)を設けました。一方、髙麗左衛門の子の二代坂助八が主導する萩・松本の御用窯では、寛文3年(1663)に初代佐伯半六(実清)と初代三輪休雪(利定)を御雇細工人に加えられています。この時期、萩焼は生産力の増強とともに質的な発展をみせ、19世紀の幕末にいたるまで侘び数寄の茶陶ばかりか煎茶具や細工物など多様な器種を生産しました。

明治維新以降は、日本社会の近代化とともに個人や企業経営の窯元が発達し、生産性を意識した多様な器種を製造しました。大正時代になると、御用窯以来の伝統的な素材と作陶技術を受け継いだ、侘び数寄の茶陶生産が再び主流となり、昭和に入ってもこの傾向は継続されますが、太平洋戦争前後からしだいに個人作家の表現としての作陶活動が盛んになり、現在は日本を代表する陶芸文化として知られています。

 萩焼の歴史性と芸術性は、昭和45年(1970)に三輪休和(十代休雪、明治28年〈1895〉~昭和58年〈1983〉)が、また昭和58年(1983)には十一代三輪休雪(のちの壽雪、明治43年〈1910〉~平成24年〈2012〉)が重要無形文化財「萩焼」の保持者(いわゆる人間国宝)として認定されたほか、平成2年(1990)に吉賀大眉(大正4年〈1915〉~平成3年〈1991〉)が文化功労者に選ばれるなど高く評価されています。

萩焼の素地

萩焼の素地は、ざんぐり(柔らかくふっくら)とした質感が特徴です。

茶人はこの「土味」を萩焼の茶陶の鑑賞ポイントとしています。素地は、釉薬との相乗効果を考えて、見島土、金峰山土、大道土の三種類の原土を調製・調合してつくられます。また、制作目的に応じて松本や深川の窯場近くで採れる地土を合わせることがあります。

萩焼の釉薬

現代の萩焼の釉薬は、なめらかによく溶けた釉層を透ける素地の土色で魅せる枇杷釉と、真綿のようにぽってりと厚く温かみのある白萩釉(「休雪白」とも)が主流です。

萩焼の見所

御用窯でつくられる萩焼は、茶碗、茶入、水指といったいわゆる茶陶が主流でした。そして、近代以降の陶工や個人作家が、萩焼の伝統的な技術を継承し、新たな創造の対象として制作したのも茶陶でした。

萩の七化け

茶陶として誉れ高い萩焼には「萩の七化け」という言葉があります。

これは萩焼の器を長年使い込むうちに、貫入を通してお茶などが器に染み込み、色合いが変化して微妙な味わいを増してくることをいいます。

登り窯で比較的低温でゆっくり焼いた萩焼は、焼き締めが弱くてやわらかく、吸水性に富んでいます。貫入は土と釉薬の収縮率の違いで生じますが、これらにより使い込むうちに「侘」(わび)、「寂」(さび)に通じる風情が見られるようになります。

古来、茶人の間では「一楽、二萩、三唐津」と言われるほどに萩焼は珍重されるものでした。七化けに思いをはせながら、萩焼をお楽しみください。

『萩焼を使うときの注意点』

ざんぐりとした土味を特徴とする萩焼は、胎土に透水性があり、器表の貫入から茶液が浸み込みやすく、使用しているうちに釉調が変化してくることがあります。これを萩の七化けともよびますが、手入れを怠るとカビが生じたりもします。

『使う前』 :半日くらい水にひたして、その後十分に乾燥させてから使うと、長く使うことができるといわれています。 また貫入のある器は、使う前に十分吸水させることで、料理の水分や油分が浸み込むことを防ぎます。

胎土の性質から、初めて使うときには、水分が浸み出してくることがあります。しばらく使用しても止まらないときは、濃茶や重湯(おもゆ)を入れて一日くらい置いておくとよいといわれています。

『しまうとき』 :使用後は手でよく水洗いし、ふきんで拭いたあと、自然の状態で十分に乾燥させてから収納してください。

                                                       参考資料:萩陶芸家協会HP